大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和45年(わ)4022号 判決

主文

一、被告人を禁錮八月に処する。

二、この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

三、訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、少年法にいわゆる少年で、昭和四四年六月二四日自動二輪免許を取得し、じ来反覆継続して自動二輪車を運転している者であるが、同年一〇月一八日午後七時五分ころ、自動二輪車を運転し、東京都荒川区町屋八丁目二番九号先の歩車道の区別のある車道幅員約九メートルの道路を尾竹橋方面から宮地方面に向かい約四〇キロメートル毎時の速度で進行中、進路前方路上に白色ペイントによりゼブラ標様に標示された横断歩道が設けられており(同所には横断歩道標識も設置されている)、当時寺田都恵子(当時四〇年)が同横断歩道上を左から右へ横断歩行中であつたから、進路の前方左右を注視して同横断歩道ならびにその上の横断歩行者の早期発見につとめ、同横断歩道上を横断歩行している者があるときは同横断歩道の手前で一時停止し同人の横断を妨げないようにすべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前方注視をじゆうぶん尽くさないまま漫然前記速度で進行した過失により、同横断歩道上で自車を右寺田に衝突させ、よつて同人に加療約八三日間(うち入院加療二五日間)を要した頭部挫傷兼挫創、右上腕および前腕、右膝部挫創兼挫傷の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)略

(被告人および弁護人の無罪の主張について)

被告人および弁護人は、本件は、被告人が単車に乗つて事故現場の交差点の阿波屋おにぎり店と尾張屋との間を通る幅員約2.8メートルの小路から尾竹橋通りに出るため左折し、同通りの中央部附近で尾竹橋方面に進行すべく待機していたところ、志田弘運転の普通貨物自動車にはねられ、その結果被告人は路上に転倒し、さらに右志田運転車両が被害者寺田都恵子をはねたものであつて、被告人が尾竹橋方面より宮地方面に走行中に横断歩行中の被害者寺田に衝突したものではないとして無罪を主張して反論し、また証拠を掲げているので、以下主要なものについて判断を示しておく。

(1)  前掲各証拠によれば、被害者寺田は、本件横断歩道上を町屋八―二―九のサトウ服地店側から町屋三―二〇―一八の塚原商店側に向つて横断中車に衝突され、同横断歩道上ないし宮地方面の横断歩道外路上に転倒したものであること、被害者の傷害の部位は、頭部挫傷兼挫創、右上腕および前腕・右膝部挫創兼挫傷であり、これらの事実のみからしても被害者は横断中右側からすなわち尾竹橋方面から進行して来た車に衝突転倒させられたものであることが認められる。

(2)  司法巡査門井秀次郎、同林田道夫連名作成の昭和四四年一〇月一八日付捜査報告書によれば、本件捜査の端緒は、同日午後七時一一分ころ荒川警察署が受理した一一〇番通報であること、事故直後に本件現場に来合わせたという証人千葉勲が本件現場にさしかかつた時間は同日午後七時一〇分ころであつたということ、証人林田道夫の供述によれば、事故発生後一一〇番が受理されるまでには早くても何分かの時間的間隔はあるわけであり、一一〇番の受理の際ないしは現場に赴いた警察官が事故の当事者や目撃者等より事情を聴取して事故発生時刻を確定するのが通常であること等の事情および前掲各証拠によれば、本件事故発生の時刻は同日午後七時五分ころであつたものと認められる。

(3) 被告人の父住田弘は、証人として、「当時自分は峡田診療所に火曜日と土曜日の週二日に通つていたもので、同診療所の受付には診察券を持つて行つて受付時間のスタンプを押して貰い、受付が終ると診察券はすぐ返却してくれることになつている(診察終了後帰る際に返却するのではなく、受付終了後に返却する。)、そして診察券を持つて行かないと受付のスタンプは押してくれないことになつており、受付時間はスタンプで押すので正確だと思う。」「事故当日の午後七時前に自分が被告人に対し診察の予約をしてくるよう言いつけて診察券を渡した。」「自宅から峡田診療所まで単車で三分ないし五分位で行ける。」「千葉さんが家に来てくれたとき、自分は二階で仕事をしていて直接顔はあわせなかつたが、声で被告人が交通事故だから、早く行きなと言つて立去つて行つたので、自分はすぐ事故現場に行くなどして結局この日は、峡田診療所には行かずじまいであつた。」と述べ、

被告人は、当公判廷で、「時計を持つていなかつたので正確にはわからないが午後七時前後ころ父から峡田診療所へ行き受付をしてもらうよう診察券を手渡され、受付けをしてもらつてその後本件現場に至つたものである。」と述べまた「峡田診療所からの帰途会社に兄信一を迎えに行く途中現場方向に向う一方通行路の栃木屋という酒屋付近で石丸亮三郎と会つた。」(この点は被告人の主張する現場に至るまでの経路の重要な裏付証拠となり得るものであるが、被告人の供述調書に何等ふれていない。)「家から峡田診療所までは単車で五分か一〇分位で行け、早ければ五分少し位で行ける。」「峡田診療所から会社に行くのに尾竹橋の方を回るのは遠回りであり、近道が一本位はあつたが慣れた遠回りの道を行つた。」と述べている。

しかるところ、証人千葉勲は、「住田宅へ行つて、被告人が交通事故だから早く現場に行つてやりなさいと言つてやつたとき、おばあさんは被告人の父の住田弘は不在であると言うので、すぐ現場に戻つた。」と述べ、検察官の「そのときおばあさん、おとうさんは病院に行つているとは言いませんでしたか。」との問いに対して「それははつきりわかりません。思い出されません。」と答えている。しかして息子が交通事故にあつたことを知せに来てくれた知人に対して肉親が居留守をつかうということが通常あることであろうか?、 もし被告人の父親が在宅であつたとするなら、おばあさんは一家のあるじである被告人の父親をすぐ呼んで、父親をして千葉から事情を聞かせるのが通常であろうし、千葉がタクシーを待たしていて急いでいたとはいえ、ことは緊急事態であつてそれ位の時間をとり得ないはずはないこと、また千葉が住田宅に来てくれたとき、住田弘は、二階で仕事をしていて直接顔はあわせなかつたが、声で被告人が交通事故だから早く行きなさいというのを聞いていたというのも、悠長すぎるのであつて、息子が交通事故にあつたとか起したというのを耳にしたのなら、まずは玄関先に行き知らせに来てくれた千葉にあつて事故場所等を聞き出すとか、同人に従つてとるものもとりあえず直ちに現場に行つてみるのが通常ではなかろうか。他方証人林田道夫は、「本件当日荒川警察署の宿直勤務についていたところ一一〇番を受理して、被害者が木村病院に収容されていると聞いたので車で同病院に立寄つたうえ、同所にいた被告人とその兄と思われる人を車に乗せて現場に行つた。すでに始められていた実況見分の距離測定などをメモするなどして補助した。現場で被告人の父には会わなかつた。実況見分が終つて、帰るときに父さんを呼んで来て下さいと被告人の兄と思われる人に言つて被告人を警察署まで車にのせて行き、事情を聴取したが、どちらから来たのか、何にぶつかつたかもわからない情況で、それからしばらくして被告人の兄が来て父親が病院に行つているから自分が代わりに来たと言つて来た。被告人が何も忘れたというので頭でも打つているのではないか、病院に連れて行つたらどうですかとその兄さんに話しをして被告人を帰した。」と証言しているのである。

ところで、住谷弘の診療録写(昭和四四年一〇月八日から同年同月二九日までの分)によれば、同人は右期間中週二日どころか、同年同月一一日、一三ないし一八日、二〇日、二二日、二四日、二五日、二八日、二九日と通院し注射等の治療を受けたことになつていること、本件当日である昭和四四年一〇月一八日には午後七時一四分受付がなされ、同日同人に注射を行つた旨の記載がなされており、これが被告人側の有力な裏付証拠の一つとして取寄せ申請され、かつ証拠として提出されたものであるが、これによれば診療の受付けは本件事故後であつて、その時間からして被告人が峡田診療所に診察券を持つて受付けに行つたことはあり得ないことになり、この点に関する前記の証人住田弘および被告人の各供述、被告人の供述調書の信用性がないか、少くともいちじるしく減殺されたものというべく、右診療録が虚偽の内容ないしは正確性にいちちじるしく欠けるとの証拠は提出されていないし、取り調べた全証拠を考慮に入れても住田弘および被告人の各供述が真実で診療録の記載が誤りであると断定することはいまだでき難いものと考える。

(4) 証人石丸亮三郎は、「本件当日の午後七時前後ころ、栃木屋酒店の前で会社に兄を迎えに行くという被告人に会つた、被告人は南の方(峡田診療所の方)から北の方(尾竹橋の方)へ行つた。」と述べ、被告人と会つた時刻について、「証人の自宅付近や、栃木屋付近で時々会社から帰宅途中の被告人と会うことがあり、その時の時間は大体午後七時ころであるので、本件当日もその位の時間に会つたことになると思う。時計を見たわけではない。」との趣旨のことを述べているところ、右によれば、右栃木屋付近は被告人の通勤路に近いものといえることになるが、被告人の検察官に対する供述調書によれば、「被告人は、土曜日と月曜日は二輪車で会社へ通つていました。その他は兄悦二が会社の自動車を借りて運転していたので私たち兄弟三人が一緒に乗つて通勤していました。土曜日は会社に車を置いて帰つていました。自宅から会社までは自動車で一〇分位である。」というのであり、また被告人は当公判廷において、「自分は兄信一、悦二とともに横山製綿有限会社に勤務しているところ、仕事が終るのはいつも午後五時半と決つていた。本件当日(土曜日)は、いつもの時間通り仕事を終つたが会社の犬の散歩、あと片付け、入浴したりして午後六時半ころ悦二とともに家に帰つた。」そして前記(4)記載のとおり栃木屋酒店で石丸亮三郎に会つたと述べ、これによれば被告人の帰宅時刻が大体午後七時ころであるとまではいい難いところであり、午後五時半ないし午後六時半前後ころまでの間に帰宅するのがむしろ通常ではなかろうかと推認されるうえ、前掲診療録および(3)で示した判断によれば、仮に被告人と証人石丸亮三郎が本件当日会つたことがあるにしても、それは被告人が峡田診療所から帰途の午後七時前後ころではなくそれよりも前の時刻であろうと推認され、単車が車体の大きさ、構造上方向転換は容易であるから、免許を取得して四か月弱の被告人が、道路事情もよく知つている本件付近を走行するにはその経路によつては、栃木屋酒店付近を通行した後種々の経路を経て本件現場を尾竹橋方向から宮地方向に向つて進行することもあり得るわけである。

(5)  財団法人日本塗料検査協会斉藤治一作成の鑑定書によれば、被告人の自動二輪車の左クラッチレバーおよび左バックミラーカバーの支柱に付着していた塗膜片は微量のため鑑定不能であつたが、左ホーンスイッチの表面に付着していた塗膜片と志田弘所有の普通貨物自動車より採取したと主張する塗膜片とはほとんど同一と判断するとされているところ、他方警視庁科学検査所警視庁技術吏員青山喬作成の鑑定書によれば、被告人の左のクラッチレバーに付着する擦過塗料と志田弘運転の自動車から採取した塗料とは相異するとされている。

ところで、

証人住田弘は、「志田運転車両の(a)右前ドアーの下から一〇センチ位のところに長さ一五ないし二〇センチ位の長さの傷があり、(b)右フエンダーのライトの後方の一寸上くらいのところに二個所すつと筋がある、同所に凹みはなく堅いものでぎゆつとこすつたようになつており、荒川警察署で志田運転車両を見たときに(b)の傷に気付いたのであるが、単車にまたがり右足をついて一寸右に傾けたとき(平行の状態より一〇センチ位高くなる)(b)の場所と符合するので、この部分がぶつかつたと思う。」と述べているところ、

証人門井秀次郎は、「事故現場で志田運転の自動車を懐中電灯で綿密にみたところ、この車はポンコツにするような古い車でほこりが一杯ついており、古い傷は相当あつたような感じであつたが、運転台のドアーの地上から三〇センチ位のところに擦過痕のような少し凹んだ新しい傷があつたが大した傷ではなかつた。」と述べ、

証人林田道夫は、「被告人の父から被告人の単車に志田弘の運転車両(青色ブルーバード)が衝突したのではないかということを言われていたので、志田が警察に自動車を持つて来たときに被告人の単車を持つてこさせて合わせてみたが、合うようなところはなかつた。被告人が単車に乗つていた状況のところに志田車両を持つて来てフエンダーあたりとハンドルが合わないかどうかをやつてみたが、相当差があつた。単車のハンドルを握つた状態で左を下げ右が上つた格好のとき志田車両のフエンダーの下から三〇センチ位のところ(右側のドアの下の方の意味か?)と単車の左クラッチが丁度合う状態になるが不自然な感じがした。」「単車のハンドルの左を上にして右を下にしたのでは全然志田の車両とは合わない。志田車両のライト付近のところにギザギザになつたような相当古いもので一寸わからない状態のところがあつたが、そこは単車のハンドルの右を上にあげ左を下にすれば合う。」と述べている。

ところで、志田弘の運転車両であるダットサンブルーバード四〇年式のライトまでの高さ、ボンネットまでの高さ、フエンダーまでの高さと被告人の運転車両であるホンダベンリー号自動二輪車のハンドルの高さ(昭和四四年自動車ガイドブックによればハンドルの高さ九九センチとなつている)からして、はたまた以上の諸点よりすれば、被告人が単車に乗つてハンドルを平行にして止つた状態や右足をついてやや左ハンドルを上にして右ハンドルを下にするようにハンドルを斜めにして止つた状態のところに前記住田弘のいう志田車両の(a)の傷や(b)の右フエンダーのライトの後方一寸上くらいのところが衝突したというような状況にはなかつたことが認められるのである。

そうして鑑定の結果は前記のようにわかれているのであるが、仮に単車の左ホーンスイッチの塗膜片が志田車両の右ドアの下方から採取した塗膜片と同一であつたにしても、判示のような状況のもとで二輪車が尾竹橋方向から宮地方向に向つて走行して来て被害者と衝突し、その衝突具合によつては二輪車も斜めに飛んで二輪車の左ハンドル等が志田車両の右前ドアーの下方に衝突することもあり得ないことではなく、この種二輪車の事故は、四輪車と比較しはるかに安定性がおとるので、衝突に際しては速度、衝撃の強さ、衝突の角度、衝突物と被衝突物の重量、形状等によつて衝突後たどる方向、状態等は種々あるわけであつて、右鑑定の結論が判示の認定をさまたげる決定的なものとはとうていいい得ないし、証拠欄記載の各証拠とくに証人寺田都恵子、同海老沼康之、同志田弘の各供述の信用性を決定的に失わせるものとは認められないのである。

(6)  被告人は本件現場に至るまでの経緯について供述調書および当公判廷において首尾一貫した供述をしていて信用性が高いと弁護人は主張するけれども、証人住田弘、同林田道夫の各供述によれば、被告人は事故当時頭を打つたためかどちらの方向からどちらの方向に向つて本件現場に来たのか、どのような状態で事故となつたのか、あるいは事故に遭遇したのか全くわからなかつた状況であつたこと、その後一週間ないし二週間被告人は同様の状況にあつたというのであつて、被告人としては事故当時の状況、現場に至るまでの経緯、方向については全くわからないというのが真実であつて、その後昭和四四年一一月一〇日付の被告人の供述調書以降において本件現場に至るまでの経緯等について述べるに至つたものであるが、これらは被告人の自動二輪車の左ハンドル等に青色の塗料が付着していたことおよび他人から得た知識等によつて右のような供述をなすに至つたものと推認されるのであつて、被告人の本件現場に至るまでの経緯についての供述が真実の内容のもので、自からの記憶していたところに基づいて述べられたものとは直ちに認め難いところである。

(7)  弁護人はまた証人寺田都恵子、同海老沼康之、同志田弘の本件事故発生の各供述は信ぴよう性がないと主張するけれども、交通事故の発生は通常、ほんのわずかの時間内、多くは二、三秒ないし数秒の限られた時間内に突然予期しないところに発生するわけで、目撃者、被害者らがごく限られたしかも印象強く焼き付いた点のみを感知し、記憶し、証言することはむしろ自然であつて、逐一、一部始終を詳細かつ合理的に供述するのでなければ信用性がないとはいい得なし、もとより誤つた認識、記憶、表現が入り込む余地が全くないわけではないが、これらの有無をも吟味しつつ証拠の価値判断をするに、大筋において右各供述は信用性があるものと認められる。

(法令の適用)略 (朝岡智幸)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例